そしてみなしごへ
今朝母は旅立ちました。
朝の5時台に病院から電話がかかってきたから、すぐに危篤の知らせだと分かった。
母の浴衣を持って病院に向かった。
母の表情はすでに死体のようになっていた。
肌はぺっとりと黄色っぽくなり、少し開いた口元に舌がのぞいていた。
「これが母の死に顔か」と心の中で思った。
いくつかの言葉を母にかけた。
先生は母の心肺機能をギリギリ保たせてる機械のスイッチを切ったようで、その後すぐに臨終を言い渡された。
涙は全く出なかった。
母が死んだ日の朝はとても良い天気だった。
母が処置されてる間、荷物を半分持ち帰り、葬儀屋に電話をした。
前に決めてた葬儀屋のことをうっかり忘れて、別の葬儀屋に頼んでしまった。
しまったと思ったけど、もうこちらに向かってきてるからキャンセルするわけにはいかず諦めた。
病院に戻り、母の残りの荷物を持って霊安室へ向かう。
先生らがお焼香をしてくれて、次はいよいよ自宅に母の遺体を運んでもらう。
自宅に遺体を運び込む姿を近所の人に見られたくないなぁと思いつつ、私も一緒に運んだ。
その後、母の布団や枕飾りをセッティングするスタッフがやってきて葬式の打ち合わせもして本日の手続き終わり。
良い天気の中、お地蔵様と神社に行ってお礼参りした。
母は全く苦しむことなく逝くことができたから。
死ぬ直前まで意識がはっきりしてたそうだ。
看護師さんが「苦しくないの?」と母に尋ねたら「苦しくない」と答えたと教えてくれた。
それを聞いたら私はパァァと嬉しくなって、神様仏様が私の願いを叶えてくれたと思った。
神社でお礼参りをした後に、神社は喪に服してる時に行ってはいけなかったんだと思い出した。(うっかり野郎)
私は30代の時から母が死ぬことが怖かった。
母をよく隠し撮りしていた。
今年死ぬんじゃないかという予感が去年あたりからあった。
去年、母は「寒いの嫌だから冬が来る前に死にたい」と言っていた。
母から死にたいという言葉を聞くのは初めてだった。
どんどん体が衰えて行動範囲が狭くなっていってたし、今年の正月は母との最後の正月になるような気がして、友達にもそう伝えていた。
そして昨日、夏目漱石の坊ちゃんの最終ページが気になって読み返してみた。
坊っちゃんと清の関係はまるで私と母のようだと思っていつも読んでいた。
「清は………気の毒なことに今年の二月肺炎にかかって死んでしまった。」
この一文はいままで気にしたことは無かったのに、昨日はハッとしてしまった。
実際母が死んでみたら、想像とはまるで違う自分がいた。
母の死を受け止めることが出来た。
今日は商店街を歩いてみたけど悲しみに襲われることはなかった。
街を歩く母娘を見ても平気だった。
まだやらなければいけない手続き等があるからかもしれないけど。
悲しみに襲われることがあったら、そのまま素直に悲しむつもり。
私に対して負担の無い死を与えてくれた母と、優しい友達たち、お願いを叶えてくれた神仏に対して感謝の気持ちでいる。
あとは自分の死だけだ。
まぁ頑張って生きていきます。
お正月は寂しいだろうけどね…。(ノд-。)クスン
母との最後の共同作業。
ペットボトルおまるセット。
白いのはトイレットペーパー。
けっこう活躍したよ。
昨日捨てました。